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原発不要・核廃絶


2008年3月12日水曜日

子供の距離感と大人の距離感

3月9日に釧路川下流域で見つけたキンクロハジロ(矢部康一さんにメールで教えてもらう)。双眼鏡で見ると冷酷な目をしたカモです。どうもこれらはオスグループのようです。
子供の時は、お正月からお正月の丸1年は永遠にありそうなくらい長いものだった。あるいは、朝起きての朝食からから夕食までの時間は随分長く感じた。いつも空腹を忘れるために外をとびまわっていた。それが今ではすぐやってくる。先ほど、朝食を食べたと思ったらもう夕食を食べなくてはいけない。今年ももう桃の節句を過ぎてしまった。すぐ、新学期で端午の節句、梅雨がきて、夏休みとなっていく。
子供と大人では、このような時間感覚の違いはどのような原因・理由によって起きるのだろうか?子供の時間は密度が高く濃いもので、大人の時間は密度が低く希薄に感じる。

還暦を過ぎたぼくの記憶の中でも7、8割を子供の頃の記憶が占めている。子供の時間は密度が濃いから当然であろうか?「三つ子の魂百までも」という諺もあるし。この問題は宿題である。

釧路に来て、お袋とイヌたちを連れてゆっくりと1時間くらい散歩している。子供の時すごく遠方の地に思っていたようなところが、こんなに近いところにあったのかと驚いてしまう。

子供の頃の距離感と大人になってからの距離感がまるで違う。子供の頃は見知った町内から外れるともう不安になる。自分の安心できる地域というものと既知の地域が同じである。一歩、既知の地域から外れると、もうそこが100メートル離れようが、1キロ離れようが同じくらい不安で遠い地域にきたという感じをもつ。
子供が認識している地域が非常に狭い範囲であるのに対し、大人はかなり広い地域を認識している。これは、子供と大人の持っている情報量の違いであるだろう。大人は実際に行ったことのない地域でもさまざまな情報によってその地域を認識しているが、子供はたとえさまざまな情報が与えられたとしても情報を読み解くための経験が不足している。

この子供と大人の距離感の違いを情報を読み解く能力や経験の違いとするならば、個人によって距離感の違いがありそうだ。あるいは、絶対距離が同じであっても、その地に通勤通学している者ならば、そうではない地は遠くに感じる。同じ湘南台に住んでいる人にとっても、池袋を近いと思う人もいれば遠いと思う人もいる。恋人が池袋にいるならば、距離は関係ない。

となると、距離感の相違は、情報量とその分析能力、認識力、さらには自分の身が置かれた状況との情緒的感覚の違いであろうか? 
いずれにしても、大人になって認識世界が広がり、広がったために世界が狭く感じ、距離感が短くなっていく。

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